柳生新影流の探究

  剣豪創世期の第一人者、初代宗家ー上泉伊勢守信綱                    前田博親 

6.初代宗家ー上泉伊勢守信綱その1 210501
上泉伊勢守信綱、一般の人にはほとんど知られていない馴染みの少ない歴史上の人物だが史上最高の栄誉と影響力を持った剣聖と云える人物である。その生涯は謎に包まれている部分が多い、このシリーズでは既に愛洲移香斎との接点については論説したので繰り返さない。新説を加えて愛洲移香斎その2で紹介しているので参照してほしい。
上泉伊勢守信綱は愛洲移香斎、松本備前の守の源流宗家に師事され「殺人剣から活人剣へ」と進化展開させた剣豪であり柳生新影流の初代宗家とされる。現代へ継承された多くの陰流の剣術流派は全てはこの人物から始まったといえる。その剣術の流派の多さは柳心会入門の時に受領する「柳心会の兵法書」の記載をみるとその数は16流派にも及ぶ。その一派が「福岡黒田藩傳柳生新影流兵法」となる。よく知られているように、近世の武術 (とくに剣術)の基本と理合については、上泉伊勢守信綱が古流を統合し、工夫して一派を成し、かつ彼が育てた優れた門人たちによって、広く天下に流布された。中世の呼称でひと括りにされる武術は、戦国乱世の猛々しきを含み、殺伐としたものでしかなかったが、信網はこれを質的に百八十度転換することを試みる。すなわち、「殺人剣から活人剣」への昇華。人を殺傷する術を、人格形成の修行にまで高め得たのは、日本武道史上、信網の功績が他に隔絶して大きい。信網は語る。「兵法は人のたすけに遣にあらず。進退ここに究りて一生一度の用に立てる為なれば、さのみ世間に能く見られたき事にあらず。たとひ、仕なしはやはらかに、上手と人には見らるるとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あらば、心のとはば如何答へん。仕なしは見苦しくて、初心のように見ゆるとも、火炎の内に飛入、磐石の下に敷かれでも、減せぬ心こそ心と頼む主なれ」。信網は後世に残した功績の巨大さに比べ、その人の実像は、依然、虚構に包まれたまま今日に至っている。そのことは愛洲移香斎久忠その2でも触れた。名字を「カミイズミ」と呼ぶべきか、「コウイズミ」と称すべきかについてすら未だに結論が出ていないが現代の多くの人名書、歴史書が「カミイズミ」となっているのでそのように呼ぶことにする。出自地も生没も確かな一次史料は存在しない、定かではない。出自地は諸説あるが一般に言われているのは上州上泉。信綱が柳生宗厳に与えた永禄9年(1566)許状に「上州の住人とあり」後の江戸期1716年の「本朝武芸小傳」には「上州伊勢の守者上州人也」とあり、今日ではそれが通説となっている。現代の地名は群馬県前橋市上泉町となる。父は上泉宣綱で出身は上野の国、赤城おろしの吹きすさぶ大胡(現在の群馬県勢多郡大胡)であり上泉の城主であった。信綱の生没は「正伝新陰流」著者の柳生厳長の多年の研究による推定では誕生を永世5年(1508)としている、異論はあるようだがこの説を採用したい。没年も諸説あって定かではないが私が「愛洲移香斎」の稿でも書いた「中世古祥道氏の研究論文」が信頼できる。彼は信綱と親しかった公卿、山梨言継の「歴代土代」に記す天正元年(1573)説を推奨されている。柳生十兵衛の「月の抄」にも同年没が記載されており当HPの新影流歴代宗家年表の生没年はこれらの説を採用した。信網は若い時から剣法を好み、陰流を開いた愛洲移香斎を継承した。その経緯については繰り返すが愛洲移香斎その2で書いたので参考にしてほしい。信綱の開いた「新陰流」の名はそのゆかりによるものだ。上泉氏は、代々、関東管領の山内上杉氏に属した関係で、北関東で北条氏康と上杉謙信が争ったとき、上杉氏についた。天文24年(1555)、北条氏が上州に攻めこんだとき信網は上州箕輪の城主の長野業政の降下に属した。このころ上野国は、小田原の北条、甲斐の武田、越後の上杉が互いに狙っていた。長野業政は、この地の有力武将で、上杉の援助をうけて、北条と武田に対抗していた。なかでも執拗につづけられた武田信玄の攻略を七年間にわたってよくはね返した。その長期反抗のかげには、信網の働きが大きかった。信網は、個人的な剣技だけでなく、戦術にもすぐれ、安中城を攻略したときには、みごとな武功をあげた。彼は長野家16人衆(16人槍ともいう)の一人としてその武名は関東一円に広がっていたのである。つづく
5.源流宗家ー松本備前守政信 210415
松本備前守政信は約550年前の室町時代人、一次史料は残っていない。彼を探究するに当たり当HPの歴代宗家一覧を参考に柳生新影流の時代系譜を確認して欲しい。剣術の宗祖、武神を祀る神社として知られている鹿島神宮(茨城県)は北浦の東岸にあって太平洋をのぞみ、大昔から海路の要衝として開け、関東における中心地だった。都から六年交替で大宮司が派遣され、神人たちは、時に兵士となって奥羽地方へ蝦夷征伐に出かけたり、防人として遠く九州へも派兵されたりすることがあったので、兵法武術が必要になり、独自の発達をとげるようになった。鹿島の神人たちに伝わる神妙剣のことを〈鹿島の太万〉とも〈一つの太万〉ともいい、別に、時代によって上古流、中古流などといった称え方もあり、〈関東七流〉の流派を創ったともいわれている。〈京八流〉に対して兵法武術発祥の地とされている。愛洲移香斎と並び柳生新影流の源流宗家とされる松本備前守政信は移香斎より15年遅く生まれ14年早く亡くなったと思われるがほぼ同時代の人といえる。彼は応仁二年(1467)にこの鹿島神宮の祝部をつとめ、鹿島の領主大掾(鹿島)氏の四家老の一家である家柄に生まれた。祝部は神宮に仕え社事を司る神人のことである。政信は、幼少の頃から神宮の神人たちに古くから伝わっている刀槍、鎌、杖などの武術を学び、さらに、同じく武神を把る香取神宮(千葉県)で刀槍の妙術を会得し<中興刀槍の始祖>といわれている。「正伝新陰流」によると政信に刀槍の術を伝授されたと伝わる者に塚原朴伝、有馬大和守乾信、小神野越前守乾信、上泉伊勢守信綱がいる。剣聖史上、松本備前守政信は重要な人物であるがその足跡は定かではない。彼の死後、約300年後に書かれた「常陸国誌」によると彼は壮烈な最後を遂げた。領主大掾(鹿島) 義幹氏の内乱が起こり四家老と対決、領主義幹の奇襲を受けた。この時、備前守政信は57歳、四尺二寸の大太刀をふるい、子息の右馬允康幹とともに縦横無尽に敵兵を切りまくった。群がる敵兵八人を切り倒したあと、さらに乱戦の中へ切り込んで行った。疲れ果て、一息抜いているところへ、松の幹影から、大身の槍が突き出された。横腹を突かれた政信は、ケラ首をつかみながら槍の主を見た。かつて、自分が万槍の術を教えたことのある津賀大膳という豪の者だった。「大膳、でかしたぞ!」と叫びながら、政信は四尺二寸の大太刀を大膳の眉間めがけて振りおろし血しぶきを上げ倒れた大膳の上に折り重なるようにして最後を遂げた。政信は次項に紹介する初代宗家の上泉伊勢守信綱に刀槍の術をいつ伝授したのであろうか。冒頭の歴代宗家年表を振り返ってほしい。信綱の生没については確かな史料はないが後代の「正伝新陰流」(柳生厳長)によると推定生誕を永正5年(1508)している。その年代が正しければ政信が壮烈な最後を遂げた年、信綱は16歳となる。剣術エリート一家に生まれた信綱ではあるが果たして少年時代に親元から遠く離れた松本備前守政信の元で師事、伝授を仰いだのでたのであろうか、疑問が残る。確かな史料は無い。直接伝授されたとしても極めて僅かな時間であったに違いない。源流宗家の愛洲移香斎と松本備前の守政信の剣の妙術を受けて後に上泉伊勢守信綱は新影流の大成させることになる。       つづくー初代宗家、上泉伊勢の守信綱へ
4.源流宗家ー愛洲移香斎久忠その 2 210401
愛洲移香斎久忠その1」でも書いたが愛洲移香斎に関する史料は数少ない。特に移香斎が陰流を会得した後の経歴は末裔の「平沢家伝記」にもほとんど書かれていない。伝記の僅かな記録によると移香斎は老齢で妻を娶り68歳にして長男、宗通をもうけたとある。並みの精力の持ち主では無かったと思える。宗通は20歳までに父の兵法、陰流を学び46歳で陰流を「猿飛陰流」に改称、発展させ大田城主佐竹家に仕え陰流を継承した。移香斎の史料に残された記録はそこまでである。そこで愛洲移香斎の日向での陰流開眼後の足取りを知るには弟子、上泉伊勢の守信綱の伝承、伝記等で推察する他ない。「平沢家伝記」によると信綱は24歳で陰流の奥義を移香斎から得て陰流の伝書、秘巻、太刀一腰及び占術書、薬方などの一切を相伝と記す。この記録を信じるならば愛洲移香斎はこの時82歳となる。寿命からしても疑問。信綱と移香斎の接点を探ると一般に伝えられている伝承は史実とは思えない。「上泉家文書」によると移香斎は信綱の父の義綱が1歳のおり祖父上泉時秀の上泉城に立ち寄り上泉家との交流が始まったとある。義綱は早くから愛洲移香斎に直接手ほどきを受けていた。義綱は18歳で松本備前の守の許にも入門した。当柳心会の源流とされる「愛洲移香斎と松本備前の守」が新影流の源流宗家であるとの伝承の根拠は義綱が創生したことになる。信綱はこの兵法エリート一家に生まれ義綱の次男として幼少から移香斎のもとで剣を磨き育ったとされる。この稿は「上泉伊勢の守信綱」ではないが愛洲移香斎の少ない史料を補う探究として書いている。私は柳心会宗家の歴代年表を独自に調べグラフにした。その際、移香斎と信綱の年齢差が約50歳以上となり疑問が生じた。師弟関係には無理があると感じた。そこで前回紹介した中世古祥道氏の著作を振り返った。彼は東京国立博物館蔵で史料「愛洲陰流秘伝書」「愛洲陰流目録」を発見したと書いている。天正10年(1583)写し-(「平沢家伝記」より113年も古く移香斎が亡くなった約30年後の史料)によると移香斎の陰流系図に「愛洲右京亮源朝信」がなる人物が存在しているのを発見、この人物が実質、信綱に新影流を伝えたのであろうと新説を唱えられている。移香斎の養子ではと書いてある。私見を許せば氏は高古で婉曲な表現をされたようだ。実子であろう。68歳にして子を成した程の人物がそれまで本妻以外の女性を遠ざけていたとは到底思えない。後世、平沢家がその名を消したと考えるのも不自然ではない。愛洲朝信から上泉伊勢の守信綱への陰流の伝授が年齢的に無理が無い新史料発見と思える。参考までに後の柳生新陰流では移香斎の長男、宗通(小七郎)により信綱に伝えられたとあるがそれでは小七郎が若すぎ疑問が解けない。信綱は幼少の頃に父義綱を通して移香斎と面識があったと思うが実際は移香斎の指示を受けた愛洲右京亮源朝信の指導で陰流を相伝したと考えた方が妥当であろう。中世古祥道氏の指摘が最も説得力があると思える。移香斎は陰流の評判を得ながら大名家クラスの家に逗留して修験者としての諸国遍歴(中世古祥道説)で陰流を広めたと思われる。移香斎の長男宗通は46歳で佐竹家に仕官、その後、関ヶ原合戦後の佐竹家移封に伴い秋田へ移住。「猿飛陰流」は秋田に移り7代まで続く。「平沢家伝記」には「天文七年戊戌(1538)卒ス、年87、法名移香斎」と記されている。参考までに2017/3/03、TV朝日ドラマで移香斎が信綱に陰流を伝授する場面が登場する。私が知る限り初の映像化と思われる。移香斎は先の稿で書いた中世古祥道氏が創った修験者様相で登場。フィクションとしては面白かった。年齢差を疑わない製作者の陰流伝授の場面だったが愛洲移香斎のイメージ映像には興味深かった。    つづくー二人目源流宗家、松本備前の守政信へ                     
3.有地宗家(4~5代柳生新影流宗家)武家屋敷を訪ねて  210315
有地宗家の江戸時代の住まいを探索した。福岡藩分限帳で有地宗家を探索すると宝永(1704-11)分限帳に「有地四郎右衛門、200石 小鳥の馬場南側西ヨリ」の記録を発見し起端を開いた。有地四郎は4代宗家、有地元勝の次男である。同5代、有地元貞と同世代、同6代の三宅源八の先輩。三宅源八と共に藩主御前で演武した記録が黒田家譜で読める。当稿は有地家の住まいの探索に絞っている。有地宗家の仔細は別の機会に論じたい。現在の地名から消えた「小鳥の馬場」を古文書で探した。福岡藩の城下町発展の歴史を調べるとこの地名は黒田長政当時から存在する侍屋敷地区と判った。有地家は少なくとも慶長(1615年頃)からはこの地に住んでいたことになる。福岡藩城下町の藩士名記載の古地図は残念ながら江戸初期ものは残っていない。福岡県立図書館と九大図書館で閲覧できる最も古いものは「福岡御城下絵図」安永6年1777)と「福岡城下屋敷全図」寛政10年(1798)「福博古図」文化9年(1800年頃写し)である。古地図は小さな崩し字で書かれ判別が難しい。その図から「有地」のを探し求めると不思議と視線が走った。有地四郎の存在が分限帳と福博古図で合致できた瞬間だった。話は複雑になるが有地四郎は1737年頃に亡くなっている、つまりこの地図は70年ほど前の情報が画かれてあることになる、実際に有地屋敷の東隣の威徳院は1725年に焼失の記録がありその後再建されていない。よって四郎存命時の地図と判断できる。「有地」の名はその後の古地図にも明記、有地家は長くこの地に住んでいたことは間違いない。敷地面積を現代地図に置き換え、河岸部分を除いて計算した。約1200㎡(360坪)。福岡藩士の200石階級の標準敷地面積より大きい。おそらく道場も併設できたと思える。参考までに福岡藩における200石取りは「中の上」階級武士と云える。城までの距離は約1.5km、徒歩で20分程の距離だ。現代の住所は「福岡市中央区天神2丁目の3」。国体道路(昔は川掘)沿い、警固神社西隣。往時は川岸に武家屋敷が並んでいた。下図の古地図と現代図を比較してほしい。有地宗家は厳しい封建時代の人、福岡藩の 最強剣士としての地位を維持していくには恐らく血の滲む、命がけの修行を極めていたに違いない。黒田家譜等の記録には「他流試合」の記録は見当たらないが他国の武芸者の挑戦は避けられなかったであろう。戦国の気風の残る江戸初期には挑まれた真剣勝負があっても不思議はない。現代の一流プロスポーツ選手のトレーニングを遥かに超える正に「命がけの修練」の日々が常態であったと私は想像する。そしてそれを支えた続けた家族の生活も厳しかったに違いない。興味深いことに有地家の武家屋敷の隣に長岡宗家の「黒田戦法」に書いてあった「疋田文五郎」の子孫と思われる屋敷も発見できた。この地区は福岡城の南の防衛最前線と位置づけられていた。「警固」神社の地名が今にそれを示唆している。長政は武術に優れた藩士をこの地区に配したのであろう。有地家の屋敷跡で時計の針を350年程巻き戻すと彼らの当時の生活が映像に浮かぶようだ。柳心会員には屋敷跡を訪ねて往時の有地宗家の生活を想い、柳生新影流の誇りと伝統の重みを感じてもらえればと願う。参考までに新旧の地図を提示した。古図を基に往時の風景を画いて現代の写真と重ねてみた。              
2.源流宗家ー愛洲移香斎久忠その1  210301
古武道、兵法の系譜をさかのぼると飯篠長威斎、愛洲移香斎、中条兵庫頭長秀の三人に辿りつく。兵法が独立した「芸道」となったのはそんなに古くない。室町後期から織豊期にかけてである。その祖流の一人が愛洲移香斎。当柳心会の源流宗家の愛洲移香斎である。愛洲移香斎は謎多き剣豪である。確かな足跡を知る歴史一次史料は存在しない。二次史料は全て江戸時代に書かれている。最も信頼できる史料は移香斎子孫が書いた「平沢家伝記」元禄9年(1696)。それでも移香斎の死後150年程経っている。その後に江戸時代に書かれた「本朝武芸小伝」「武術流祖録」が存在する。現在の武芸書の多くはこれらの書物を参考にしている。移香斎は伊勢愛洲一族と思われるが定かではない。「武術流祖録」には「いずこの人たるを知らず」と記され、「生国経歴などつまびからず」とも書かれている。出生も諸説は取り乱れている。愛洲一族の五ケ城址に位置する南伊勢町は「我らが町愛洲移香斎」を叫び町立資料館「愛洲の館」を建設、移香斎の資料展示をおこなっている。当柳心会も参加した「剣阻祭」を営む「愛洲の里」を整備。愛洲移香斎の出生の地として喧伝、最も有名である。この資料館で販売している郷土史家ー中世古祥道(古老故人)の「愛洲移香斎久忠傳考」は移香斎研究書の秀作と思える。氏は資料館に展示してある愛洲移香斎久忠彫像のイメージを創った人でもある。
移香斎の末裔が書き残した「平沢家伝記」によれば移香斎は享徳元年(1452)生、天文7年(1538)没とある。36歳の時に現在の宮崎、鵜戸神宮(毎年当会が演武奉祝を行っている)ー日向の国、鵜戸の霊窟に籠り、満願の日、蜘蛛の化身となった老翁から秘伝を授けられ、自ら一流を立てた。これが「陰流」であると記載されている。陰流の「陰」はその後「影」に変遷するがそのことは後日触れたい。陰流とは外に表れた動きを「陽」と言うのに対して、目に見えない心を指すと思われる。後の新影流系統では「内に蔵してみだりに発せぬ心、すなわち心術」と説いている。「陰流」は中国の「武備志」に猿の刀操図とその紹介が史書に残る。この事実からしても当時「陰流」はかなり世に広まっていた事が伺い知れる。後に陰流は移香斎の弟子、上泉伊勢の守信綱により新陰流として大成されることになる。                                       つづく
1.柳生の里 210215
柳生の里は今日でも隠れ里に思える。この地は戦国時代から江戸初期にかけて剣術をもって天下に知られていた歴史の里である。その里の風物は今でも変わらないようだ。柳生の里へ入るには、昔から伊賀上野、笠置、奈良を起点とする三つのルートがある。どのルートも今日でも険しい、最寄りの鉄道もなく、バスもめったに通わない山村だ。奈良から47号線、旧街道沿いをレンタカーで辿って柳生の里へ行き笠置に抜けた。それぞれの街道は捨てがたい風情を今に残している。柳生街道は、春日大社の社家町であった高畑通りのはずれから始まり、春日奥山の樹林にわけ入って行く。沿道には石仏や由緒ある古社寺が多い。その坂からさらに丘一つ隔てた山あいに鄙びた集落を南北に細長く形成しているのが柳生の隠れ里である。人影もほとんど見ない。現代の寒村と言ってよい。昔は孤島の様な僻地だった事が想像できる。そのような山里から歴史に名を残す剣豪が多く輩出した。日本史の不思議の一つと思える。下欄に現代の隠れ里の写真を載せている。当柳心会は平成23年8月27~28日に三重県南伊勢町の愛洲移香斎を祀る剣祖祭参加の道中,柳生の里 柳生正木坂道場で演武を行った。周辺の史跡案内は 柳生観光協会の資料が解りやすい。