柳生新影流の歴史探索

  誰も書かなかった大野(柳生)松右衛門家信     編集・前田博親

13.三代宗家 大野(柳生)松右衛門家信・その1 211015
はじめに・誰も書かなかった柳生松右衛門
世に広く知られる剣聖とも呼ばれる源流宗家から二代目宗家の柳生石舟斎らの4人に較べて三代宗家、大野(柳生)松右衛門は一般の人には知られていない。映画、TV,書物に登場することもない。当流派の口伝では「大野松右衛門は柳生石舟斎の高弟の一人、長州萩藩にて兵法指南、有地元勝と共に筑前黒田藩にて西国柳生新影流を開いた」とあるが黒田家文書関係を丹念に調べたが大野松右衛門の存在を匂わす資料は見当たらなかった。松右衛門の生没すら不明の状況で歴史探索を始めた。最初に尋ねたのは柳生家の菩提寺である芳徳寺。何らかの資料が存在すると期待したが回答は得られなかった。一時は彼の存在すら疑問視したが糸口は萩市にあった。「長州萩藩にて兵法指南」の口伝を頼りに萩(長州)藩の江戸初期の藩政記録を調べた。幸運にも一点だけ柳生松右衛門の記載がある史料を発見することができた。「毛利3代実録46巻」の中で彼は慶長16年(1611)12月26日、初代藩主、毛利秀就の初お国入りの饗宴式典に出席していた。重臣28名列席者の1人として記録されていた。「柳生松右衛門」はこの日、毛利家の家臣として確かに存在していたのが確認できたのである。この歴史は後に詳しく書きたい。霧中の中でわずかな一点に光がさした瞬間であった。この点描を題材にして萩市立図書館に彼の名が記載されている古書を調べてもらった。幸いに望外な手間をかけていただき複数の関係書物の存在が判った。大野松右衛門解明の突破口を開くことができた。萩市立図書館の担当官の積極的な協力がなければ松右衛門の歴史探索は不可能であった。同時に4代目宗家、有地家の存在も萩藩の分限帳に記載されていることも教えてもらった。その後の調べで「有地家文書」が熊本県立図書館に所蔵されていることを知る。古文書の原本のみ保管で個人閲覧もできない状態。しかし熊本県立図書館の格別な好意で費用を負担し撮影、複写資料を送付してもらえた。古文書の原本解読には労力を要したが有地家文書に松右衛門の重要な記録が記載されてあり新発見が相次いだ。萩市立図書館と熊本県立図書館にはこの場をお借りして厚く感謝申し上げたい。それでも松右衛門の史料文献はこれまでの歴代宗家に較べて圧倒的に少ない。限られた史料文献ではその人物像全体の解明は困難、別の手法で補完する必要があった。発見できた関係史料から大野松右衛門歴史の「点」を拾い、そこに日本史の時代背景を刷り込むことで彼らの人物像を「線」としてさらに蓋然性のある推論を加え「歴史イメージホログラフ」と呼べるような画像に浮かび上がる独自の手法とってみた。松右衛門は戦国時代を懸命に生きた歴史証人であることが分かった。松右衛門が亡くなった頃に戦国乱世は終わり、長い太平の時代が訪れたのである。柳生(大野)松右衛門と次の宗家の有地元勝は密接につながっている。二人の歴史を連続で関連しながら物語風に書いていければ良いと思っている。柳生松右衛門家信の歴史を探索して私は覚醒されるように中世から近世に至る歴史大河の一部を脳裏映像で観ることができた。彼らはこの歴史の大河の中に確かに実在し、そしてつぶさにそのドラマを実体験した日本人であったことを改めて知ることができた。私にとって二人の宗家の歴史探求は戦国日本をリアルに実感できる良い機会を与えてくれたと思っている。約450年の時を遡れば私達日本人の一人、一人のDNAは当時の百万人以上の人々に繋がっていると計算できる。そう考えるとこの二人と無関係と言い切れる現代人は少ないと思う。誰も書くことの無かった柳生松右衛門とそれに続く有地元勝。多くの資料を読み込んだ歴史探索成果を知ってもらいたい、そう願っている。長編連載になると思うがご容赦願いたい。                         つづく
12.二代宗家―柳生宗厳(石舟斎)-その4 210801
石舟斎は「世のうみを わたりかねたる 石のふねかも」と韜晦な歌を詠じた僅か1年後にして運命は一転して光明へ逆転することになった。その後、柳生宗矩は徳川家に臣従して、慶長五年(1600)の天下分け目の関ケ原合戦で家康の命を受けて父、石舟斎とともに上方勢の後方を経略して功があった。晩年の石舟斎が関わった唯一の戦であった。彼は家康の求めに応じて地元の浪人や小豪族をかき集め宗矩と共に主に後方支援を行った。この時、宗厳72歳、家康はその功績への恩賞として秀吉時代に没収された旧所領の二千石を回復した。翌年には宗矩は家康の子息秀忠の兵法指南役となり千石を加増、柳生家の旧領地三千石を復活した。石舟斎はこうして家康と出会うことにより失った旧領を復活し経済的な困窮からも脱して剣聖としての晩年を送ることになった。宗矩の功績は大きかった。しかし石舟斎は意外にも新影流三世の相伝を宗矩に行わなかった。正統の相承者となったのは孫である柳生兵庫助利厳である。彼は天与の剣の英機をもっており柳生の血筋にも二人とは出ぬ麒麟児と評されていた。宗矩は当初は自らが相伝すると思い込み、「父上は孫の可愛さから兵助に相伝するのであろう」と訝っていたが、後にそうではなかったことを思い知らされることになった。彼はその甥と一度対戦した時、ついに一歩も動けず、竹刀を置いたと伝わる。老齢に至った石舟斎は季節の変わり目に痛む壮年の頃から戦場往来でうけた古傷をいくつも残していた。彼はひと月ほど有馬の湯に湯治していたことがあった。湯宿でくつろいでいた石舟斎を昔の試合で敗北し恨みを抱いている兵法者が忍び寄り襲ったことがあった。石舟斎は可愛がっている隼鷹を左手に置き、その羽を撫でていた、身に着けているのは小脇差のみ、曲者は背後から一刀両断で斬りつけた。瞬間、石舟斎は向き直り小刀で相手の脾腹を深く刺し貫いていた。石舟斎の手の上の鷹はその間、身動きもしなかったという。石舟斎は新影流の印可を長男厳勝の次男兵庫助利厳に与えた2ヵ月後の慶長11年(1606)4月19日に、柳生の里で死去した。享年79歳。その墓は柳生の里、芳徳寺に今も残る。その後、柳生宗矩は慶長20年(1615年)の大坂の陣で2代将軍・秀忠のもとで従軍した。秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒し追い退ける武者ぶりを示したのは世の知るところである。
宗矩は徳川家康、秀忠、家光の3代に仕え徳川幕藩体制の要の人物となり剣豪というより政治家としての地位を盤石なものにした。宗矩は初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その影響は全国の大名に波及することになった。現代流でいえばCIA、検察庁長官に相当するとも云えよう。一方では武道だけではなく芸道にも優れた才能を発揮、特に3代徳川家光には格別の信頼を得た。柳生一門は兵法指南家を超え優れた政治家、柳生宗矩の権勢をもって比類なき繁栄を遂げた。宗矩は正保3年(1646)3月25日76歳にて大往生をとげた。墓は東京の広徳寺と柳生の芳徳寺にある。石舟斎の代わりに家康に2百石で家臣に採用され一万二千五百石大名への出世は他に例を見ない。宗矩は往生前に家光に遺言として父、石舟斎の墓所弔いに芳徳寺へ2百石寄進を願い出て認可された。今日の柳生の里、芳徳寺の由来である。石舟斎の死後、尾張徳川家に仕えた兵庫助利厳の子孫(尾張柳生)と江戸の叔父、柳生宗矩の子孫(江戸柳生)は江戸時代を通じて交流が無かった。両家の断交は利厳と宗矩の不和から始まったとされる。石舟斎は真に兵庫助利厳に「新陰流三世の相伝」したのであろうかとの疑問の声もあることも記しておきたい。尾張柳生家と江戸柳生家はその後もお互いに正しい新陰流相伝の柳生宗家(本家)を主張している。現在もこの問題で互いに譲る気配はない。史実が近い将来において決着することはないであろうことを最後に付け加えておきたい。我々の福岡藩伝柳生新影流はそのいずれの流派からも派生していない。石舟斎の高弟、大野松右衛門から派生したのである。                                                                                             柳生石舟斎-完
11.二代宗家―柳生宗厳(石舟斎)-その3 210715
兵法にかちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかも
改めてこの詩を詠じると「兵法での勝を取ったとしても世の中の時代の海を渡り損ねた石舟斎(石の舟)であることよ。」と読める。処世の如才に欠けていた自身の、世渡り失政を振り返って、彼はこの歌を詠んだのであろう。 石舟斎の号も、おそらくはそんな韜晦な自分史を象徴的に詠じたのではなかろうか、自らの失政を浮かぬ石舟に例えている。宗厳とて戦国の武将である。命をかけ度重なる戦を経た権力闘争への野心が無かったはずはない。あるいは当時の武将のほとんどが抱いた天下取りへの願望があっても不思議ではない。しかし結果は多くの肉親、盟友を失い先祖伝来の3千石の領地さえ失った失墜の結果に終わった。兵法者としての成功と武将としての失政、その忸怩たる思いが見事にこの歌に表現されているといってよい。尚、この詩の「かちを取りて」を「舵をとりて」と書く書物も見受けられる。私は原本で確認できないが「兵法に舵を取りて」では彼の足跡とその自負心の達成感が弱すぎる。「兵法に勝ち」と解釈するのが妥当と思える。さすがに宗厳の権力闘争の失意は大きかったようだ。後世の我々から見れば宗厳のイメージからかけ離れたやや女々しいとも思えるほどの歌も残している。「世をわたるわざなきゆえ兵法をかくれがとたのむ身ぞうき」。「兵法を隠れ家」等と自嘲とも聞こえる宗厳の姿を後世の我々は見たくない。ところがこの後、運命は一転した。世の中はこの比類なき剣聖を見捨てなかった。翌年、文禄3年、68歳の石舟斎に飛躍のチャンスが訪れた。『玉栄拾遺』にはこう書かれてある。「文禄甲午の年、衆落紫竹村にて宗厳公の剣術始めて神君(徳川家康)上覧、木刀を持ちたまい、宗厳これを執るべしと上意あり。すなわち公、無刀にて執りたまう。そのとき神君、後ろへ倒れたまわんとし、上手なり向後師たるべしとの上意の上、景則の刀を賜いて誓詞をかたじけなくす。ときに5月3日なり。かつ俸禄二百石を賜う」と書く。ところで文禄3年に黒田長政の仲介で石舟斎が宗矩を連れて徳川家康のもとへ召喚されたと多くの書物が疑問もなく書いている。ウイキペデイアにも出典不明でそう書いている。私は黒田長政が朝鮮出兵(文禄の役)参陣中と思われる時期、又、黒田官兵衛が秀吉の処刑を覚悟して長政に遺書を渡していた時期に剣術の余興に携わるゆとりがあったとは到底思えず以前から疑問を感じていた。又、秀吉存命時代に秀吉の嫌疑を誘うような長政と家康の密接な関係を伺わせる資料は見当たらず、果たして史実かとの疑いが解けなかった。先に記した柳生家に残る『玉栄拾遺』にも長政の関与は触れられていない。念のために柳生厳長、著書「正傳新影流」の石舟斎が家康出会った口伝の下りも調べたが仲介の記述はない。私は「黒田家文書」を調べてその疑問が解けた。「御感書」第9巻、文禄3年5月19日、に豊臣秀吉から長政への書状が残っていた。家康が石舟斎と初対面した同じ月である。それによると秀吉は美濃部四郎三郎と山城小才次の朝鮮からの帰国実情報告を受け長政に「朝鮮在陣衆の在番体制」等の司令役を命じている。長政はこの時期、朝鮮で戦っていたのだ。同年12月2日にも再び秀吉が長政に与えた書状も残っている。そこには長政への朝鮮在陣をねぎらい「在番衆の交代帰国を認める」と書いてある。長政が日本に帰国したのは文禄4年であることは疑いない。したがって家康への長政の仲介は無かったと思われる。考えてみれば当時政権ナンバー2の家康に仲介者など必要としなかったと思う。石舟斎を召喚すれば済んだと思われる。いずれにせよ石舟斎は伏見城造営のため洛北紫竹村滞陣中の家康に目通りした。家康(53歳)に乞われて「無刀取り」の剣技を披露した。老齢の石舟斎は兵法に自信を持っていた家康を驚嘆させるほどの業を示した。家康はその場で師弟の起請文と俸禄二百石を与えたのである。家康ともあろう人がそのような軽率とも思える即断は生涯でも例がないと思える。彼の衝撃の大きさを物語っている。このとき家康は石舟斎を兵法師範に所望したが彼は老齢の故をもって辞退し同行していた五男、24歳の又右衛門宗矩を推挙した。石舟斎が宗矩を家康の家来にしたのは自身と異なる処世の才をもつ彼に柳生家の前途を賭ける気になったからであろう。                        つづく                                     
10.二代宗家―柳生宗厳(石舟斎)-その2 210701
宗厳は戦に明け暮れ多くの手傷を負って奮戦し一廉の武将としての地位を築きその武名は畿内には知らぬ武士はいないほどの存在になった。そして宗厳は永禄6年、38歳(永禄9年説あり)に運命的な出会いをする。新影流初代宗家の上泉伊勢守信綱。宗厳の剣が殺人剣から活人剣へと昇華する運命的な出会いである。その情景は先に7稿の「上泉伊勢守信綱その2」で書いたので繰り返さないが宗厳の受けた衝撃は余程大きかったとみえる。彼は上泉伊勢守信綱との試合で手も足も出なかった。後に「穏やかに立っておるだけの相手が、なんともいえずに恐ろしかったのはあのときだけやった」と語り「兵法百首道歌」に次のように書き残している。「世にふしぎ奇妙は多きぞ良く習え 習うて恥辱にならぬ兵法」、「兵法にふしぎ奇妙は多き世をわれのみと思う知恵ぞかなしき」「兵法の手きき奇妙のかるわざは弟子のおよばぬ習いになりけり」。
宗厳は宝蔵院道場にて3日間で3度の試合に完敗し直ちに信綱の門弟に加えてもらい入門の進上物として馬一頭、平樽酒、昆布5把、赤飯1荷を献上し信綱を柳生谷の館に招き入れた。信綱は高弟の鈴木意伯、疋田文五郎とともに宗厳の指導に当たりながら数年間を柳生谷に滞在している。宗厳は永禄9年には「新影流目録」を与えられるに至った。先の稿で詳しく書いたので繰り返さない。一説によれば信綱は宗厳に「無刀取り」の秘術を宗厳に課題として与えそれに見事に答えたことから印可状を与えたともいわれる。この時初めて兵法者、柳生新影流宗厳が誕生した。永禄8年、織田信長から宗厳に書状が届いた。信長は足利義昭から上洛軍出兵の要請を受けており、伊勢、伊賀を経て奈良より京へ上る道に柳生宗厳に格別な奔走を求めたのである。永禄10年にも再び書状を受け取り信長との関係が深まって行った。信長から「誓紙をもって申し合わせ候、急度加勢をせしむべく候」とあり、当時、松永久秀と軍事同盟を結び戦っていた信長は宗厳に家臣のような信頼を寄せていたことも伺える。その後、歴史は松永久秀が反信長への旗幟を鮮明にして反転した。久秀は滅んだ。宗厳はその後、久秀との宿縁が災いして信長の在世中は表立った活動は許されず剃髪して柳生の荘に閉居し世に隠れた。新影流の鍛錬工夫に専念する時を得たことになる。この時から宗厳は武将から兵法家の身上となったと思える。天正6年(1579)、宗厳52歳、摂関家の近衛前久からの書状が残っている。そこには宗厳が誓紙を差し出して前久に奉公したことが書かれている。前久は武術にも優れ先例のない傑出した公卿であった。上泉信綱亡き後、6年が経過したこの頃には新影流、柳生宗厳の高名は兵法家として天下に轟いていたことが伺える。そして3年後に織田信長が本能寺で横死、豊臣秀吉がその後継者の地位を確立し、やがて天正13年(1585)7月には彼は関白に任されて中央政権を樹立する。この年に父、家厳が亡くなる。宗厳56歳。豊臣秀吉の命で大和の支配者が筒井氏から秀吉の実弟 豊臣秀長に代わり,大和の武士は伊賀に移るか帰農を迫られた。江戸中期に成立した『柳生雑記』では、秀長の統治下においての太閤検地で秀長の怒りに触れて「柳生の庄隠田の科に処せられて、累代の所領没収」とあり、宗厳は柳生の故地を追放の身となり3000石の領地も失い柳生家が経済的にも困窮する要因となった。その後、一方では秀吉の甥で近江の大名となった豊臣秀次に仕えたともある。同年11月9日付けの「秀次黒印状写」によると、近江愛知田郡内の青山村などで百石の知行を与えられたと記されている。 ( 『柳生文書』による)。江戸期に編纂された柳生家歴代の記録『玉栄拾遺』によれば「秀次は新陰の門弟にして誓書今に有る」とも記されており、秀次が宗厳から新影流兵法を相伝され起請文を提出していたらしい。柳生家は秀次と主従関係を結び僅かな知行で生計を立てたのかもしれないが秀吉と秀次の関係が悪化するに連れ宗厳の立場はさらに苦しくなり秀次から離れたようだ。その秀次は文禄4年(1595年)には秀吉により切腹させられた。宗厳と秀次の関係は確かな史料がなく判然としないがおそらく秀吉の秀次への歴史上まれにみる一家大虐殺による後顧の影響を避けるために宗厳は関係記録を抹消したと思われる。こうして宗厳が再び世に出ようとした矢先に折り重なるようにして時代の不運が重なったことは間違いない。経済的にも漸次困窮、失意の感懐、老境に至った65歳の文禄2年(1593)に剃髪し石舟斎と号し柳生谷に隠棲し自身の不運な巡りあわせを上記の「兵法百首道歌」に詠じたのであろう。
兵法にかちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかも」                                   つづく               
9.二代宗家ー柳生宗厳(石舟斎)その1 210615
柳生宗厳は歴代宗家の中では数多くの書物、メディアでも取り上げられている最も有名な剣聖である。宗厳についての詳述はそうした情報を参考にしてもらえれば事欠くことはない。ここではそうした分野で余り取り上げられることない宗厳の史実を中心に掘り下げてみたい。彼は大栄7年(1527)生、慶長11年(1606)4月19日没。(生年1529年説もある。)歴史上、戦国乱世の時代を渦中として生きた人物であるといってよい。老境に至った65歳の文禄2年(1593)に石舟斎と号し柳生谷に隠棲し「兵法百首道歌」に有名な歌を詠じた。
                 「兵法にかちをとりても 世のうみを わたりかねたる 石のふねかも」
この歌には毀誉褒貶のそれまでの彼の人生が「石舟斎」の名とともに見事に象徴されていると私は感じる。「世のうみ」とは言うまでもなく日本史上で最も激しい権力闘争、殺戮が繰り返された戦国乱世の時代を指している。この歌に込められた宗厳の人生の去来を時を下って追ってみたい。
宗厳は小柳生荘に本拠を持つ柳生美作守家厳の嫡男として生まれた。三千石ほどの地方豪族で宗厳は別段兵法家の家柄という訳ではなかった。その子息として生まれて以来、人生の三分の二は戦国時代の荒波にもまれ、いつ落命してもおかしくない日々を送った。彼は戦乱の時代を生き抜くうち、多くの肉親、盟友を失い愛別離苦の波に繰り返し襲われてきた、事実、長男の厳勝は初陣で腰に鉄砲傷を負って不具となり再び和州の合戦で重傷を負い剣の才能を表しながら歩行もままならぬ身となった。四男五郎右衛門は戦死、結局宗厳は11人の子を設けながら跡を継いで兵法家になったのは五男の宗矩だけである。兵法の大家、剣豪といっても、道場での修行が中心になる後世の剣士たちとは全く異なる実戦から兵法の道を会得していった武将としての人生を送った。彼の剣は当初は殺人剣と密接不可分なものだった。宗厳は18歳で初陣、筒井順昭に柳生家厳の小柳生城(現在の芳徳寺周辺)を攻められ戦っている。日本の鉄砲伝来はその頃である。永禄6年には松永久秀が大和を侵入、この戦いに加わった宗厳は武峰東口の合戦で殿軍を務め数人の首を上げるなど奮戦、自身も傷を負って危うく命を落とす激戦を経た。後にこの武功で松永久秀から感状を受け久秀の武将としての地位を築いた。宗厳37歳。話は変わるが後に戦国の覇者となる織田信長は宗厳より7歳年下に生まれている。信長は鉄砲、弓の稽古に勤しむ姿がドラマなどで見かけられるが実態は異なる。特に兵法については平田三位という者をいつも自分の元に呼んで稽古に余念がなかったと「信長公記」は伝えている。「兵法」 の意味は時代により異なると云われ戦略や戦術と解することもあるが、イエズス会の宣教師の同時代の『日葡辞書』の記録によれば「兵法」とは「剣術」を意味する言葉であり、また「兵法者」とは「剣術者」を意味し当時の兵法とは専ら剣術を意味していたとある。実際に信長子息のうち、嫡男信忠は疋田文五郎に新影流兵法を三男信孝は新当流兵法を学んでいることからしても当時の武将には剣術が軍事上の重要な意味を持っていたことを忘れてはならない。つづく

8. 初代宗家ー上泉伊勢守信綱その3 210601
源流宗家 愛洲移香斎久忠の「かげ」流、初代宗家上泉伊勢守信綱の新「かげ」流。「陰(影)流と新陰(影)流」の違いは諸説あり今でも剣道会の結論は明確ではないと云ってよい。永禄8年(1565)に信綱が柳生但馬守(石舟斉)へ与えた許状には「号新陰之流」とあり尾張柳生家がこれを所有していると聞く。家康が但馬守に上げた起請文(文禄3年、1594)にも「新陰流兵法目録」とあり、柳生流派は歴代、「陰」を用いている。我々の所属する「愛洲影流継承 福岡黒田藩傳 柳生新影流兵法は「影」流である。果たして上泉伊勢守信綱はどの「かげ」流を正しいとしたのか。現代へ継承された多くの「かげ」流の剣術流派は「陰」流を称しており「影」流は少数派である。果たしてそれで良いのであろうか。平安末から室町にかけての漢字は「訓が同じであれば別な字を使用して良かった時代がある」との指摘もある。中には名称はどうでも良い、実践、稽古と思われる人もいるだろうがこの問題は「かげ」流の大事な精神、伝統が込められ、避けて通れない問題と考えられる。「かげ」についての歴史史料を整理してみると次のようになる。       一、 先の稿で書いた愛洲移香斎の子孫、平沢家文書には「陰流」と書かれてある。それが今日ほとんどの書物に「陰流」と書かれる根拠になっている。しかし既に書いたように平沢家文書は移香斎死後150年後に書かれた。
二、先記のように信綱が永禄8年(1565)に柳生但馬の守に与えた許状には「号新陰流兵法相伝事」と書かれてあり尾張柳生家が所有している。これが後に徳川家康の重臣となった柳生宗矩により全国に広まった柳生新陰流が「陰流」と称した根拠となっている。現代の書物、メディア等は全てこの「陰」名を踏襲している。
三、 ところが永禄9年(1566)の信綱から柳生石舟斎、与えた(免)許状は4巻あり、その1~3巻には初めに「新陰流」と書き、その後に「陰」を「影」に訂正している。4巻では始めから「新影流」としている。この指摘は先の「愛洲移香斎」の稿でも書いた中世古祥道氏(元、愛洲の館館長)がその著書で指摘している。その巻物は平成7年の開館時の特別展で公開されていたと書いている。私は展示原本の記録を「愛洲の館」に調べてもらったが残念ながら写しは残っていなかった。同じく永禄12年、信綱が丸目蔵人佐に与えた目録一巻にも「影流」と書かれてある。
四、 先の「愛洲移香斎」の稿で書いたように中国に残る「武備志」には「影流の目録」と書いてある。歴史上「かげ」流が書かれた最も古い書物である。おそらく倭寇の勇士の中に影流の目録を持った者が中国に伝えたと考えるのが妥当と思われる。中国の武備書について影は陰の誤記であろうとの批判もあるが中国語は日本語と異なり影と陰は別音 (イヤアンとイーン)と異なり誤認は考えにくい。「影流」の書体が正しいと思われる。
五、 現在、上泉信綱の真筆と認められる古目録は第15代尾張柳生家当主、柳生延春の考察によると上記の柳生石舟斎に与えた『影目録』四巻と永禄12年に丸目蔵人佐あての目録一巻のみであろうと語っているー「新陰流兵法』第191講道による。現時点では上記の四に記したようにその2点の目録はいずれも「新影流」と書かれている。信綱直筆の書状に「新陰流」は確認されていない。
六、 福岡藩、長野日記、正徳5年(1715)9月2日の記録には「黒田長清(直方藩主)二の丸の御館にて剣術御覧、新影流、有地四郎門弟4名」とあり福岡藩では江戸初期から 「新影流」を使っていたことが判る。その後も一貫して福岡藩では柳生新影流と称している。
このような史実関係を鑑みると上泉伊勢守信綱のかげ流は「新影流」が正しいと思われる。このシリーズでも度々紹介している中世古祥道氏はその論証で「影」説を唱えられている。しかし剣道界において「かげー陰」を見直す動きはない。「福岡藩傳柳生新影流」の宗家相伝には「影流」は次のように伝えられて今日までその伝統を引き継いでいる。
「上泉伊勢守信綱は・・・愛洲移香斎の影の流、松本備前の守の鹿島神流を学び、・・・創意工夫を重ね・・・人間の煩悩を断ち切る「摩利支尊天」の振るう仏刀を奥源となし不殺修身の活人剣を以て奥義とした。影流に新の字を加えて「新影流」と号した。」 平沢家文書には影流開祖の愛洲移香斎が記した唯一の史料と思われる「摩利支天ししやの事」の文書が残っている。上泉伊勢守信綱が柳生石舟斎に与えた新影流目録の第一巻にも「摩利支尊天専以為」と書かれてある。不思議なことに信綱の「かげ流」はその「摩利尊支天」の影響を受けたと記載している書物は見当たらない。私はこの摩利尊支天に「影流」の影を解く鍵が潜んでいるように思える。摩利尊支天とは原語でMarīcī」太陽や月の光(陽)線を意味しているとされる。仏教の守護神である天部の一尊。日天の眷属とある。太陽や月の光の対語は影でなくてはなるまい。光と影。当柳心会は現在でも摩利尊支天を道場のご神体として崇め、日々の稽古に励んでいる。上泉伊勢守信綱の新影流は「日輪摩利尊支天」の「光と影」を奥儀に加えて新影流と称したと考えられる。やはり陰は影でなければ柳生新影流の本旨から外れると思われる。福岡藩傳柳生新影流は今日、全国でも有数の20を越える「影流」の技を継承して伝統を守り続けている。
つづく、2代宗家 柳生但馬 (平宗巌・石舟斎)へ
7. 初代宗家ー上泉伊勢守信綱その2 210515
上泉伊勢守信綱の主君、長野業政が病死して武田信玄は早速、上州攻略に兵を進める。永禄9年(1566)に上州箕輪城はついに陥落(近年は永禄9年説が有力となっているが永禄6年は従来説)、長野氏は没落した。敗れた信綱は京に上った。既にその名声は京に響いており時の足利将軍義輝はすぐに信綱を召してその教えを受け「天下一」の称号を与えたと伝わるがいささか怪しい。なぜなら上州箕輪城陥落が永禄9年となると義輝は既に永禄8年に暗殺されているからだ。これからの話は複雑になるが上州箕輪城落城を永禄6年説に仮定して従来説を紹介したい。信綱は箕輪城陥落後(永禄6年説)に武田方の内藤昌豊に一度形式的に召し抱えられたがすぐに去ったとの伝えがある。一説には武田信玄が直属の家臣にしたいと望んだが「新陰(影)流を諸国に広めたい」と願い出て他国には仕えないとの条件で暇をもらったとも。そしてそれまで名乗っていた秀綱を信玄の「信」の字をもらって信綱と名のったとある。こうして永禄6年信綱は戦国争乱の世のなかで、怒濡にもてあそばれるような武将としての生活を捨て、家族を故郷に残し、甥と思われる疋田豊五郎と高弟の鈴木意伯ら5~6人を伴い、剣術を広めるため東海道を西上して上方へむかつた。信綱の剣名は天下に轟いていた。伊勢の国司へ参り、北畠具教を訪問したとも伝わる。もしこうした伝承は上州箕輪城落城(永禄9年説)が正しければ時系列が全て矛盾し信綱は落城前に長野業政の家臣を離れたことになり大変不自然である。新史料発見を期待し今後の剣道史研究を待ちたい。話は変わるが信綱が門人と共に遍歴の旅に出るまでの生涯は勿論、フィクションではあるが愛洲移香斎の稿でも紹介した2017/3/03、BS朝日ドラマ、「上泉伊勢守信綱」が解り易く参考になる。私が知る限り上泉伊勢守信綱の旅立ちまでの最初の映像化と思われる。旅に出た信綱一行は具教の紹介により奈良宝蔵院を経て、柳生ノ庄へ行く。柳生新影流の始まりである。既に畿内随一の剣の使い手として知られていた柳生石舟斎宗厳と試合、立ちあう事三度。宗厳は信綱の太刀に圧倒され一撃も打ちこめなかった。信綱は格段の強さを発揮、宗厳の願いを入れて門人とした。一説にはこの立ち合いには疋田文五郎を相手に完敗したともある。信網はしばし柳生ノ庄に滞在しその後、門人の疋田文五郎を残して京に出た。やはり兵法を広めるには都でなければならぬと考えたのであろう。その後もしばしば、柳生ノ庄と往復しているようだ。この時期に信網は、知己の公卿、山科言継とも再会している。明けて永禄八年、将軍足利義輝は松永久秀らにより誅殺される。その頃、信網は義輝に剣を指南していたと伝わる。彼は好運にも京と大和を往来し柳生に身を寄せていて凶変には巻き込まれずにすんだようだ。この年のうちに柳生宗厳に、新影(陰)流の印加状与えている。元亀元年(1570)に6月27日には門人と共に正親町天皇の天覧演武にあずかっている。この天覧年は上州箕輪城落城が永禄9年説であっても矛盾はない。公卿、山科言継の仲介があったと思える。前例のない栄誉である。元亀元年(1570)兵法者としては最高の従四位下に叙せられた。その後も彼以上の高い地位についた剣豪はいない。信綱は宮中や幕府でいかに盛名が上がっていたことを物語る。そうしている内に戦国乱世の天下争乱は刻一刻と姿を変えて行った。信綱の没地は諸説ある。大和の柳生説、郷里説、帰国途中説いずれも確証にかけ推定の域を出ない。先に書いたように信綱の没年を天正元年(1573)とすれば天覧試合の3年後に亡くなったことになる。65歳。各地で剣の指南活動の最中であったと思われる。そう考えると没地は「帰国途中説」が正しいように思える。おそらく病死、事故あるいは暗殺等で亡くなったのではなかろうか。確かな墓は存在しない。このシリーズで紹介した柳生の里、芳徳寺には柳生家歴代の墓と並んで供養塔が残る。信綱が亡くなったと思われる1573年の9年後の天正10年3月には宿敵であった武田家は滅亡した。2月後の6月には天下統一まであと一歩と迫った織田信長が本能寺の変で横死。戦国時代の節目は上泉伊勢守信綱と共に終わった。
参考までに前橋市のHP(下記のアドレス)には上泉伊勢守信綱が紹介されている。                               つづく
https://www.city.maebashi.gunma.jp/bunka_sports_kanko/7/1/21213.html
6.初代宗家ー上泉伊勢守信綱その1 210501
上泉伊勢守信綱、一般の人にはほとんど知られていない馴染みの少ない歴史上の人物だが日本史上最高の栄誉と影響力を持った剣聖と云える人物である。その生涯は謎に包まれている部分が多い、このシリーズでは既に愛洲移香斎との接点については論説したので繰り返さない。新説を加えて愛洲移香斎その2で紹介しているので参照してほしい。
上泉伊勢守信綱は愛洲移香斎、松本備前の守の源流宗家に師事され「殺人剣から活人剣へ」と進化展開させた剣豪であり柳生新影流の初代宗家とされる。現代へ継承された多くの陰流の剣術流派は全てはこの人物から始まったといえる。その剣術の流派の多さは柳心会入門の時に受領する「柳心会の兵法書」の記載をみるとその数は16流派にも及ぶ。その一派が「福岡黒田藩傳柳生新影流兵法」となる。よく知られているように、近世の武術 (とくに剣術)の基本と理合については、上泉伊勢守信綱が古流を統合し、工夫して一派を成し、かつ彼が育てた優れた門人たちによって、広く天下に流布された。中世の呼称でひと括りにされる武術は、戦国乱世の猛々しきを含み、殺伐としたものでしかなかったが、信網はこれを質的に百八十度転換することを試みる。すなわち、「殺人剣から活人剣」への昇華。人を殺傷する術を、人格形成の修行にまで高め得たのは、日本武道史上、信網の功績が他に隔絶して大きい。信網は語る。「兵法は人のたすけに遣にあらず。進退ここに究りて一生一度の用に立てる為なれば、さのみ世間に能く見られたき事にあらず。たとひ、仕なしはやはらかに、上手と人には見らるるとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あらば、心のとはば如何答へん。仕なしは見苦しくて、初心のように見ゆるとも、火炎の内に飛入、磐石の下に敷かれでも、減せぬ心こそ心と頼む主なれ」。信網は後世に残した功績の巨大さに比べ、その人の実像は、依然、虚構に包まれたまま今日に至っている。そのことは愛洲移香斎久忠その2でも触れた。名字を「カミイズミ」と呼ぶべきか、「コウイズミ」と称すべきかについてすら未だに結論が出ていないが現代の多くの人名書、歴史書が「カミイズミ」となっているのでそのように呼ぶことにする。出自地も生没も確かな一次史料は存在しない、定かではない。出自地は諸説あるが一般に言われているのは上州上泉。信綱が柳生宗厳に与えた永禄9年(1566)許状に「上州の住人とあり」後の江戸期1716年の「本朝武芸小傳」には「上州伊勢の守者上州人也」とあり、今日ではそれが通説となっている。現代の地名は群馬県前橋市上泉町となる。父は上泉宣綱で出身は上野の国、赤城おろしの吹きすさぶ大胡(現在の群馬県勢多郡大胡)であり上泉の城主であった。信綱の生没は「正伝新陰流」著者の柳生厳長の多年の研究による推定では誕生を永世5年(1508)としている、異論はあるようだがこの説を採用したい。没年も諸説あって定かではないが私が「愛洲移香斎」の稿でも書いた「中世古祥道氏の研究論文」が信頼できる。彼は信綱と親しかった公卿、山梨言継の「歴代土代」に記す天正元年(1573)説を推奨されている。柳生十兵衛の「月の抄」にも同年没が記載されており当HPの新影流歴代宗家年表の生没年はこれらの説を採用した。信網は若い時から剣法を好み、陰流を開いた愛洲移香斎を継承した。その経緯については繰り返すが愛洲移香斎その2で書いたので参考にしてほしい。信綱の開いた「新陰流」の名はそのゆかりによるものだ。上泉氏は、代々、関東管領の山内上杉氏に属した関係で、北関東で北条氏康と上杉謙信が争ったとき、上杉氏についた。天文24年(1555)、北条氏が上州に攻めこんだとき信網は上州箕輪の城主の長野業政の降下に属した。このころ上野国は、小田原の北条、甲斐の武田、越後の上杉が互いに狙っていた。長野業政は、この地の有力武将で、上杉の援助をうけて、北条と武田に対抗していた。なかでも執拗につづけられた武田信玄の攻略を七年間にわたってよくはね返した。その長期反抗のかげには、信網の働きが大きかった。信網は、個人的な剣技だけでなく、戦術にもすぐれ、安中城を攻略したときには、みごとな武功をあげた。彼は長野家16人衆(16人槍ともいう)の一人としてその武名は関東一円に広がっていたのである。つづく
5.源流宗家ー松本備前守政信 210415
松本備前守政信は約550年前の室町時代人、一次史料は残っていない。彼を探究するに当たり当HPの歴代宗家一覧を参考に柳生新影流の時代系譜を確認して欲しい。剣術の宗祖、武神を祀る神社として知られている鹿島神宮(茨城県)は北浦の東岸にあって太平洋をのぞみ、大昔から海路の要衝として開け、関東における中心地だった。都から六年交替で大宮司が派遣され、神人たちは、時に兵士となって奥羽地方へ蝦夷征伐に出かけたり、防人として遠く九州へも派兵されたりすることがあったので、兵法武術が必要になり、独自の発達をとげるようになった。鹿島の神人たちに伝わる神妙剣のことを〈鹿島の太万〉とも〈一つの太万〉ともいい、別に、時代によって上古流、中古流などといった称え方もあり、〈関東七流〉の流派を創ったともいわれている。〈京八流〉に対して兵法武術発祥の地とされている。愛洲移香斎と並び柳生新影流の源流宗家とされる松本備前守政信は移香斎より15年遅く生まれ14年早く亡くなったと思われるがほぼ同時代の人といえる。彼は応仁二年(1467)にこの鹿島神宮の祝部をつとめ、鹿島の領主大掾(鹿島)氏の四家老の一家である家柄に生まれた。祝部は神宮に仕え社事を司る神人のことである。政信は、幼少の頃から神宮の神人たちに古くから伝わっている刀槍、鎌、杖などの武術を学び、さらに、同じく武神を把る香取神宮(千葉県)で刀槍の妙術を会得し<中興刀槍の始祖>といわれている。「正伝新陰流」によると政信に刀槍の術を伝授されたと伝わる者に塚原朴伝、有馬大和守乾信、小神野越前守乾信、上泉伊勢守信綱がいる。剣聖史上、松本備前守政信は重要な人物であるがその足跡は定かではない。彼の死後、約300年後に書かれた「常陸国誌」によると彼は壮烈な最後を遂げた。領主大掾(鹿島) 義幹氏の内乱が起こり四家老と対決、領主義幹の奇襲を受けた。この時、備前守政信は57歳、四尺二寸の大太刀をふるい、子息の右馬允康幹とともに縦横無尽に敵兵を切りまくった。群がる敵兵八人を切り倒したあと、さらに乱戦の中へ切り込んで行った。疲れ果て、一息抜いているところへ、松の幹影から、大身の槍が突き出された。横腹を突かれた政信は、ケラ首をつかみながら槍の主を見た。かつて、自分が万槍の術を教えたことのある津賀大膳という豪の者だった。「大膳、でかしたぞ!」と叫びながら、政信は四尺二寸の大太刀を大膳の眉間めがけて振りおろし血しぶきを上げ倒れた大膳の上に折り重なるようにして最後を遂げた。政信は次項に紹介する初代宗家の上泉伊勢守信綱に刀槍の術をいつ伝授したのであろうか。冒頭の歴代宗家年表を振り返ってほしい。信綱の生没については確かな史料はないが後代の「正伝新陰流」(柳生厳長)によると推定生誕を永正5年(1508)している。その年代が正しければ政信が壮烈な最後を遂げた年、信綱は16歳となる。剣術エリート一家に生まれた信綱ではあるが果たして少年時代に親元から遠く離れた松本備前守政信の元で師事、伝授を仰いだのでたのであろうか、疑問が残る。確かな史料は無い。直接伝授されたとしても極めて僅かな時間であったに違いない。源流宗家の愛洲移香斎と松本備前の守政信の剣の妙術を受けて後に上泉伊勢守信綱は新影流の大成させることになる。       つづくー初代宗家、上泉伊勢の守信綱へ
4.源流宗家ー愛洲移香斎久忠その 2 210401
愛洲移香斎久忠その1」でも書いたが愛洲移香斎に関する史料は数少ない。特に移香斎が陰流を会得した後の経歴は末裔の「平沢家伝記」にもほとんど書かれていない。伝記の僅かな記録によると移香斎は老齢で妻を娶り68歳にして長男、宗通をもうけたとある。並みの精力の持ち主では無かったと思える。宗通は20歳までに父の兵法、陰流を学び46歳で陰流を「猿飛陰流」に改称、発展させ大田城主佐竹家に仕え陰流を継承した。移香斎の史料に残された記録はそこまでである。そこで愛洲移香斎の日向での陰流開眼後の足取りを知るには弟子、上泉伊勢の守信綱の伝承、伝記等で推察する他ない。「平沢家伝記」によると信綱は24歳で陰流の奥義を移香斎から得て陰流の伝書、秘巻、太刀一腰及び占術書、薬方などの一切を相伝と記す。この記録を信じるならば愛洲移香斎はこの時82歳となる。寿命からしても疑問。信綱と移香斎の接点を探ると一般に伝えられている伝承は史実とは思えない。「上泉家文書」によると移香斎は信綱の父の義綱が1歳のおり祖父上泉時秀の上泉城に立ち寄り上泉家との交流が始まったとある。義綱は早くから愛洲移香斎に直接手ほどきを受けていた。義綱は18歳で松本備前の守の許にも入門した。当柳心会の源流とされる「愛洲移香斎と松本備前の守」が新影流の源流宗家であるとの伝承の根拠は義綱が創生したことになる。信綱はこの兵法エリート一家に生まれ義綱の次男として幼少から移香斎のもとで剣を磨き育ったとされる。この稿は「上泉伊勢の守信綱」ではないが愛洲移香斎の少ない史料を補う探究として書いている。私は柳心会宗家の歴代年表を独自に調べグラフにした。その際、移香斎と信綱の年齢差が約50歳以上となり疑問が生じた。師弟関係には無理があると感じた。そこで前回紹介した中世古祥道氏の著作を振り返った。彼は東京国立博物館蔵で史料「愛洲陰流秘伝書」「愛洲陰流目録」を発見したと書いている。天正10年(1583)写し-(「平沢家伝記」より113年も古く移香斎が亡くなった約30年後の史料)によると移香斎の陰流系図に「愛洲右京亮源朝信」がなる人物が存在しているのを発見、この人物が実質、信綱に新影流を伝えたのであろうと新説を唱えられている。移香斎の養子ではと書いてある。私見を許せば氏は高古で婉曲な表現をされたようだ。実子であろう。68歳にして子を成した程の人物がそれまで本妻以外の女性を遠ざけていたとは到底思えない。後世、平沢家がその名を消したと考えるのも不自然ではない。愛洲朝信から上泉伊勢の守信綱への陰流の伝授が年齢的に無理が無い新史料発見と思える。参考までに後の柳生新陰流では移香斎の長男、宗通(小七郎)により信綱に伝えられたとあるがそれでは小七郎が若すぎ疑問が解けない。信綱は幼少の頃に父義綱を通して移香斎と面識があったと思うが実際は移香斎の指示を受けた愛洲右京亮源朝信の指導で陰流を相伝したと考えた方が妥当であろう。中世古祥道氏の指摘が最も説得力があると思える。移香斎は陰流の評判を得ながら大名家クラスの家に逗留して修験者としての諸国遍歴(中世古祥道説)で陰流を広めたと思われる。移香斎の長男宗通は46歳で佐竹家に仕官、その後、関ヶ原合戦後の佐竹家移封に伴い秋田へ移住。「猿飛陰流」は秋田に移り7代まで続く。「平沢家伝記」には「天文七年戊戌(1538)卒ス、年87、法名移香斎」と記されている。参考までに2017/3/03、TV朝日ドラマで移香斎が信綱に陰流を伝授する場面が登場する。私が知る限り初の映像化と思われる。移香斎は先の稿で書いた中世古祥道氏が創った修験者様相で登場。フィクションとしては面白かった。年齢差を疑わない製作者の陰流伝授の場面だったが愛洲移香斎のイメージ映像には興味深かった。    つづくー二人目源流宗家、松本備前の守政信へ                     
3.有地宗家(4~5代柳生新影流宗家)武家屋敷を訪ねて  210315
有地宗家の江戸時代の住まいを探索した。福岡藩分限帳で有地宗家を探索すると宝永(1704-11)分限帳に「有地四郎右衛門、200石 小鳥の馬場南側西ヨリ」の記録を発見し起端を開いた。有地四郎は4代宗家、有地元勝の次男である。同5代、有地元貞と同世代、同6代の三宅源八の先輩。三宅源八と共に藩主御前で演武した記録が黒田家譜で読める。当稿は有地家の住まいの探索に絞っている。有地宗家の仔細は別の機会に論じたい。現在の地名から消えた「小鳥の馬場」を古文書で探した。福岡藩の城下町発展の歴史を調べるとこの地名は黒田長政当時から存在する侍屋敷地区と判った。有地家は少なくとも慶長(1615年頃)からはこの地に住んでいたことになる。福岡藩城下町の藩士名記載の古地図は残念ながら江戸初期ものは残っていない。福岡県立図書館と九大図書館で閲覧できる最も古いものは「福岡御城下絵図」安永6年1777)と「福岡城下屋敷全図」寛政10年(1798)「福博古図」文化9年(1800年頃写し)である。古地図は小さな崩し字で書かれ判別が難しい。その図から「有地」のを探し求めると不思議と視線が走った。有地四郎の存在が分限帳と福博古図で合致できた瞬間だった。話は複雑になるが有地四郎は1737年頃に亡くなっている、つまりこの地図は70年ほど前の情報が画かれてあることになる、実際に有地屋敷の東隣の威徳院は1725年に焼失の記録がありその後再建されていない。よって四郎存命時の地図と判断できる。「有地」の名はその後の古地図にも明記、有地家は長くこの地に住んでいたことは間違いない。敷地面積を現代地図に置き換え、河岸部分を除いて計算した。約1200㎡(360坪)。福岡藩士の200石階級の標準敷地面積より大きい。おそらく道場も併設できたと思える。参考までに福岡藩における200石取りは「中の上」階級武士と云える。城までの距離は約1.5km、徒歩で20分程の距離だ。現代の住所は「福岡市中央区天神2丁目の3」。国体道路(昔は川掘)沿い、警固神社西隣。往時は川岸に武家屋敷が並んでいた。下図の古地図と現代図を比較してほしい。有地宗家は厳しい封建時代の人、福岡藩の 最強剣士としての地位を維持していくには恐らく血の滲む、命がけの修行を極めていたに違いない。黒田家譜等の記録には「他流試合」の記録は見当たらないが他国の武芸者の挑戦は避けられなかったであろう。戦国の気風の残る江戸初期には挑まれた真剣勝負があっても不思議はない。現代の一流プロスポーツ選手のトレーニングを遥かに超える正に「命がけの修練」の日々が常態であったと私は想像する。そしてそれを支えた続けた家族の生活も厳しかったに違いない。興味深いことに有地家の武家屋敷の隣に長岡宗家の「黒田戦法」に書いてあった「疋田文五郎」の子孫と思われる屋敷も発見できた。この地区は福岡城の南の防衛最前線と位置づけられていた。「警固」神社の地名が今にそれを示唆している。長政は武術に優れた藩士をこの地区に配したのであろう。有地家の屋敷跡で時計の針を350年程巻き戻すと彼らの当時の生活が映像に浮かぶようだ。柳心会員には屋敷跡を訪ねて往時の有地宗家の生活を想い、柳生新影流の誇りと伝統の重みを感じてもらえればと願う。参考までに新旧の地図を提示した。古図を基に往時の風景を画いて現代の写真と重ねてみた。              
2.源流宗家ー愛洲移香斎久忠その1  210301
古武道、兵法の系譜をさかのぼると飯篠長威斎、愛洲移香斎、中条兵庫頭長秀の三人に辿りつく。兵法が独立した「芸道」となったのはそんなに古くない。室町後期から織豊期にかけてである。その祖流の一人が愛洲移香斎。当柳心会の源流宗家の愛洲移香斎である。愛洲移香斎は謎多き剣豪である。確かな足跡を知る歴史一次史料は存在しない。二次史料は全て江戸時代に書かれている。最も信頼できる史料は移香斎子孫が書いた「平沢家伝記」元禄9年(1696)。それでも移香斎の死後150年程経っている。その後に江戸時代に書かれた「本朝武芸小伝」「武術流祖録」が存在する。現在の武芸書の多くはこれらの書物を参考にしている。移香斎は伊勢愛洲一族と思われるが定かではない。「武術流祖録」には「いずこの人たるを知らず」と記され、「生国経歴などつまびからず」とも書かれている。出生も諸説は取り乱れている。愛洲一族の五ケ城址に位置する南伊勢町は「我らが町愛洲移香斎」を叫び町立資料館「愛洲の館」を建設、移香斎の資料展示をおこなっている。当柳心会も参加した「剣阻祭」を営む「愛洲の里」を整備。愛洲移香斎の出生の地として喧伝、最も有名である。この資料館で販売している郷土史家ー中世古祥道(古老故人)の「愛洲移香斎久忠傳考」は移香斎研究書の秀作と思える。氏は資料館に展示してある愛洲移香斎久忠彫像のイメージを創った人でもある。
移香斎の末裔が書き残した「平沢家伝記」によれば移香斎は享徳元年(1452)生、天文7年(1538)没とある。36歳の時に現在の宮崎、鵜戸神宮(毎年当会が演武奉祝を行っている)ー日向の国、鵜戸の霊窟に籠り、満願の日、蜘蛛の化身となった老翁から秘伝を授けられ、自ら一流を立てた。これが「陰流」であると記載されている。陰流の「陰」はその後「影」に変遷するがそのことは後日触れたい。陰流とは外に表れた動きを「陽」と言うのに対して、目に見えない心を指すと思われる。後の新影流系統では「内に蔵してみだりに発せぬ心、すなわち心術」と説いている。「陰流」は中国の「武備志」に猿の刀操図とその紹介が史書に残る。この事実からしても当時「陰流」はかなり世に広まっていた事が伺い知れる。後に陰流は移香斎の弟子、上泉伊勢の守信綱により新陰流として大成されることになる。                                       つづく
1.柳生の里 210215
柳生の里は今日でも隠れ里に思える。この地は戦国時代から江戸初期にかけて剣術をもって天下に知られていた歴史の里である。その里の風物は今でも変わらないようだ。柳生の里へ入るには、昔から伊賀上野、笠置、奈良を起点とする三つのルートがある。どのルートも今日でも険しい、最寄りの鉄道もなく、バスもめったに通わない山村だ。奈良から47号線、旧街道沿いをレンタカーで辿って柳生の里へ行き笠置に抜けた。それぞれの街道は捨てがたい風情を今に残している。柳生街道は、春日大社の社家町であった高畑通りのはずれから始まり、春日奥山の樹林にわけ入って行く。沿道には石仏や由緒ある古社寺が多い。その坂からさらに丘一つ隔てた山あいに鄙びた集落を南北に細長く形成しているのが柳生の隠れ里である。人影もほとんど見ない。現代の寒村と言ってよい。昔は孤島の様な僻地だった事が想像できる。そのような山里から歴史に名を残す剣豪が多く輩出した。日本史の不思議の一つと思える。下欄に現代の隠れ里の写真を載せている。当柳心会は平成23年8月27~28日に三重県南伊勢町の愛洲移香斎を祀る剣祖祭参加の道中,柳生の里 柳生正木坂道場で演武を行った。周辺の史跡案内は 柳生観光協会の資料が解りやすい。                                               
柳生の里・芳徳寺